翻訳とは決して教科書通りの直訳ではない

私は一般的な会社員ですが、自分のバックグラウンドや大学などで学んでいた学科などもあり学生の頃から今に至るまで、定期的に英語と中国語の翻訳の仕事を人づてに頼まれることがあります。なので翻訳の専門学校で訓練された立場ではありませんが、通訳や翻訳の世界を素人よりは少しかじっている感じなのではないでしょうか。大学のときには字幕翻訳のクラスを履修した経験もありますし、実際に字幕製作の仕事をさせていただいた経験も何度かあります。語学学校で中国語検定レッスンも受けていました。

そこで毎回思うのですが、大学入試や大学の英語の授業などで求められる「和訳」があったりしますが、それは翻訳の世界、それも特に映画やテレビ番組の世界で求められる訳とはかなり違うのですよね。学校の英語の授業で求められるのはいわば「教科書通りの正確な訳」であり、あまり制限はありません。とにかく言葉を正確に訳すことが一番求められるものです。それに対し、映画の字幕は文字の制限があったりセリフが伝えたい雰囲気やエッセンスがあるため、教科書通りの訳では成り立ちません。とくにはむしろあまり内容的には正確な訳ではない場合が多いということに気付くことが多いです。

字幕製作の仕事をやらせてもらうようになってからは、日本で観るアメリカ映画などの字幕に今までより注目するようになりました。今でも印象に残っている「テッド2」に出てくるセリフの字幕ですが「お祖父ちゃんのお葬式のときに子どもに着せるような服」のような言い方に訳されていたセリフがあったのですが、内容的にはむしろ「お祖父ちゃんが死んだと子どもに言うときに子どもに着せるような服」と英語で言っていたのです。少し違いますよね。実際にはお祖父さんが死んでいると子どもに報告するときの服の話であり、お葬式の段階までは行っていないはずですから。

その字幕を見た私は少しもやもやしながらも、映画の字幕とはときにはこういう端折りや省略、膨張なども必要であることを発見しました。やはり文字制限や時間の制限がありますし、その映像やシチュエーションに違和感さえもたらさなければ許されるのですね。

「訳す」という行為には色々なものがあるということを学びました。